ありがとうございます!
生きるために欲望が必要だった!とは素晴らしい秀吉評だと思います。
信長様合理的で好き❤
室町時代末期には我が国は新しき体制を求めていた、長き戦国乱世を観て領民は塗炭の苦しみを得ていた、 時代が新しき体制を求めていた、信長が農兵分離と言われる仕組みを新たに作り出し経済拡大に意欲を示し、古き体制との経済格差を生み出していった、 それを背景に武力で徐々に大差がつき始めたが明智光秀に突然の謀反を受け本能寺の変で自刃をした、秀吉の時代はさらに国は豊かになり、豪華絢爛の聚楽第までも生み出していった、 後は安定性のある政権を民草は求めていた関ヶ原の合戦により事実上政権交代がなされ徳川体制となって行く結局は国民が求める安定した豊かな政権が誕生した
昔、テレビで信玄の物とされる金属製の軍配が出てきたな 甲陽軍鑑の記述通り3回切りつけられた跡があったのは感動ものだったな 切りつけたのは謙信じゃない説、実はなんとなく軍を動かしてたら遭遇しちゃって乱戦になった説なんかがあるけど やっぱ好きな戦いだわ
京、堺では家康が誅サツされる、という噂で持ちきりだった、そのための軍が明智、だから信長は本能寺が囲まれるまで気づかなかったなんて話もありますがどうなんでしょうね。ただ、明智の動向が秀吉、家康に筒抜けだったのは細川父子じゃないかな。両者の父子に対する待遇って破格だし。
1:20:40 いや、三法師は嫡孫なんだから 代理で信雄が織田家の指揮を取ることはあっても三法師が家督を継ぐのは規定事項でしょうよ そこは信雄も理解してるだろうしここは問題ないよ あと1:27:10 関ヶ原の戦いはあくまで「豊臣家の内乱」だよ "豊臣家の家臣"の東国を収める徳川家康が総大将の軍だから東軍と呼ばれるわけで。 ただこれで事実上徳川家の力が勝るようになったのは事実だが
×大正10年1582年 ○天正10年1582年
よしかわ ではない、きっかわ!
利休は武士じゃないのに切腹を命じられたのよね、、、、
謙信は信長を打ち取る事は出来なかった。織田軍は弱く戦では圧勝するが、逃げの信長は籠城戦へ、上杉軍は農耕兵が中心のため長期戦は不向きであった。
上杉謙信は、越後守護と関東管領に自家を規定していて織田家が拡大しなければ北陸へ進出しなかったと思う。 彼個人として2度上洛した結果、足利体制で天下に号令するような野心は捨てていたと思うし、銀山経営や青芋専売によって元禄時代まで残るほどの財力もあり、信長のように新体制で天下に号令するような斬新な考えにたどり着くような革新的な人物でもなく、それ以前に越後以上の領土拡大欲はなかったように思う。 織田家との戦いで北陸に進出しているが、これはあくまでも織田家に対する兵数での劣勢を補うのが目的ではなかっただろうか。 関東管領職にも最終的には嫌気がさしていて、ゆえに北条家出身の上杉景虎を関東管領を譲るために上野に配置したのだと思う。 太田資正が評した「8割善人で2割大悪人」という言葉での大悪人とは本質的には越後経営にしか興味がないのに要請に応じてほいほい出兵して、なんら問題の抜本的な解決をとらずに戦闘に勝利したら去って行ってしまうという上杉謙信の欲のなさを指しているように思う。
本能寺の変は「へうげもの」の解釈が面白い
17:21 金ピカだなぁ。いいなぁ。
利家の悪い噂 ま、まつの初産…
秀吉の当時 切腹は刑罰ではあったが 武士としての名誉を重んじた刑罰で 謀反の咎や罪人として刑に処される場合には 武将といえども斬首刑が科せられた 利休は茶人であったものの武将相当の待遇で秀吉に仕えていた 弟子に大名武士がいた事もあり 利休に対して武士並の切腹を科す事で 落とし所を設けて 無用な戦さ沙汰を避ける狙いもあったのかも知れない
光秀が信長を討ったのはなぜか。秀吉が利休に切腹を命じたのはなぜか。共に同じ理由だという作家がいますね。正しいかどうかは別にして、それを思い出させてくれた主様に感謝致します。
1:36:12 わりと真面目に聞いてただけあって いきなりひでおは笑う。
魔理沙の冷徹な「本能寺」考は面白い。 秀吉の情報収集力、用意周到な行動力は納得できる。
@三星ちゃんねる-v9p