現在もご活躍されている快楽亭ブラック師匠は、実は明治時代に人気を博したオーストラリア出身の噺家、初代快楽亭ブラックの名跡を継いでいる。本人のルーツにも合っているしそれなりに歴史のある名前ではある。
タイトルを堀元さんに反論させたい😂😂
ヘーゲルの考え方はネガティブ。哲学には時間や空間のローカ性があるからと言って使える過去のものもある。風雪に耐えた考えは、それを色褪せたと見るか、そこに永遠の輝きを見出すかは、その人の知性次第。
「生気と自由に溢れた現在にとても太刀打ちできないからです」 か、過去の例を引き合いに戒めるのが得てして失敗する理由がなんとなく分かった気がする。 「過去○○だったからやめよう」より「今その行動は道徳に合うのか?」の方が刺さるのか
「歴史から学ばない(ことを歴史から学ぶ)」。これは正しいでしょうか。 「生気と自由に溢れた現在にとても太刀打ち出来ない」なるほど、ヘーゲルが生きた18世紀では過去の歴史など一篇の詩文、絵画、良くて戯曲などによる再演によってしか垣間見ることが出来なかったのですからそうかもしれません。写真の発明まで100年近くありますからね。 しかし、現代の我々はどうでしょう。写真や映像記録は過去の「歴史」を「事実」として鮮やかに、幸か不幸か何度でも繰り返し見せてくれます。 果たして「現在に太刀打ち出来ない」とまで言い切れるでしょうか。 「政治家や民衆は歴史から学ぶことはない」こちらも現代では様子が違うように感じます。 ホロコーストや核兵器の使用といった歴史の過ちから学んだからこそ少なくとも80年近く同じ過ちを犯さずに来れたのではないでしょうか(前者は民族浄化という意味ではアパルトヘイトや現在進行しているイスラエルによるパレスチナ人虐殺など反例もありますが、少なくともドイツは繰り返していません)。 我が日本も他国への武力侵略の過ちから学び、憲法にその放棄を明記したのではなかったでしょうか。 「歴史から学ばない」について、以上のように歴史から学んでいると考えられる反例が挙げられることから考えると、実際には因果関係が逆で、過去の事例から学ぼうとしない者が、過去を活き活きとして鮮やかな現実として思い起こそうとはせずに無味乾燥な文字列や数字として「歴史」の中に閉じ込め「昔とは状況が違う」などと言って学ばないことを正当化しているのではないのか。 「学びたくないから「歴史」に閉じ込めている」が実態ではないのかと、過去の事実を否定し軍備拡大に前のめりな祖国の政治家を見ていると思わざるをえません。 また別の面から考えるために「歴史」を「過去の事例」と置き換えてみます。 科学は過去の事例(実験,研究,証明)の積み重ねによって発展してきました。いえ、科学に限らず学問と呼ばれる営みはおよそ全てがそうであるはずです。先行研究を無視した卒論で学位はもらえませんよね。 学びとはまさに過去の事例を知ることであり、その意味では「学ばない者とは歴史を知らない者」ではないでしょうか。 即ち、「学びたくないから「歴史」に閉じ込めている」と捉える方が正しいように私には思われます。
むかし中日にいたニルソンは故星野監督によって「ディンゴ」という登録名にされましたが短期で帰国 評論家に「星野よ、お前が外国に行って『サクラ』とか名前つけられたらやる気でないだろ?そういうとこだよ!」と突っ込まれていたのを思い出した
私はこう思っています: 歴史は繰り返す。ただし、ただでは繰り返さない。 後半がヘーゲルが言っていた「条件の変化」を含むのかな、と。
小泉八雲から「稲むらの火」ときて「おっ、伏線回収(小泉八雲は生き神様という民話を聞いて同作を英語でかいた)だ」と思ったら違いました。人によって知識が違うからこの時に伏線回収するのだと思って肩透かしを喰らうので、状況が違うのだから歴史から学ぶべきではないですね!
『カラマーゾフの兄弟』を、新潮の原卓也訳と光文社の亀山郁夫訳で読み比べたことがあります。 亀山さんの訳は確かに読みやすいのですが、私は原さんの訳の方が深みがあって好きです。 原さんの訳で一番感銘を受けたのは、検事イッポリートがミーチャの二面性を表現したことばです。 少し長いですが引用します。 「ふつう人生では両極端の中間に真実を求めねばならないのが常でありますが、この場合は文字どおり違います。何より確かなことは、最初の場合に彼が心底から高潔だったのであり、第二の場合には同じように心底から卑劣だったということであります。これはなぜか? ほかでもありません、彼が広大なカラマーゾフ的天性の持主だからであり――わたしの言いたいのは、まさにこの点なのですが、ありとあらゆる矛盾を併呑して、頭上にひろがる高邁な理想の深淵と、眼下にひらけるきわめて低劣な悪臭ふんぷんたる堕落の深淵とを、両方いっぺんに見つめることができるからであります。」(下巻 p476) もし、興味があったら亀山さんがこの一節をどう訳したか、読み比べてみると面白いかもしれません。
愚者は経験から学び賢者は歴史から学ぶって言葉よりもヘーゲルのこの言葉の方が好きだったが 自身の学びも間違っていたことを学ばされました
杉原千畝さんの回想録については、クーリエ・ジャポンの記事『「日本のシンドラー」杉原千畝は誇大視されているのか?』で、作り話だと書かれていました
「不実な友を持つよりも、より良き敵を持て。最高の敵は己の成長を高めてくれる最良の友となるだろう」←多分ツァラトゥストラだと思うんですが、ナアナアでシャンシャンするより議論で切磋琢磨する方がお互いに視野が拡がるでしょう。😂
結局全ての哲学って「よく学び、よく考え、よく行動せよ。全部無駄だから」に終結する気がしてる
まあ、主張はわかるけど、各々の事象を概念化というか、抽象化さえできれば学べるのでは、、とか思っちゃいます!
歴史に学び考慮するべきだが、同じことにならない確率の方が高いが、因果関係がはっきりしている場合は、同じようになる。確率が高い。
外国人落語家と言えば、初代快楽亭ブラック師匠と、桂文枝さんの弟子の桂三輝(サンシャイン)さん!
訳と言えば『源氏物語』も与謝野晶子、谷崎潤一郎から、瀬戸内寂聴、円地文子、田辺聖子、林真理子、角田光代と現代語訳が様々。谷崎が美しい。イチ推しは大和和紀『あさきゆめみし』漫画だけど。
稲むらの火を検索しちゃった。以下、Wikipediaより。 村の高台に住む庄屋の五兵衛は、地震の揺れを感じたあと、海水が沖合へ退いていくのを見て津波の来襲に気付く。祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に松明で火をつけた。火事と見て、消火のために高台に集まった村人たちの眼下で、津波は猛威を振るう。五兵衛の機転と犠牲的精神によって村人たちはみな津波から守られた。
同じ条件じゃないから適用出来ないというのは、科学で言う自然の斉一性を否定するようなもので、あまり筋の良い主張ではないように思えますね。 ある意味で同じ条件と見做すことが出来る事例であれば、過去の事例を適用するのは自然な事ではないでしょうか。 実際歴史で同様に繰り返される事例を列挙すると、共通する条件が浮かび上がる事は多いです。 ――そこまで分かっていても、同じことを繰り返してしまう愚かさこそが、人間の本質なのかもしれませんが――
@yurutetsugaku