@yurutetsugaku

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◯カントと知的直観 ―カント「純粋理性批判」超越論的感性論の分析から―
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I027236042

◯超越論的実在論批判としての 『実践理性批判』の二律背反
http://hdl.handle.net/2065/00094445

◯カント論理学の形式的分析
http://hdl.handle.net/2433/240635

◯カント入門 
https://amzn.to/4czknxT

◯カント入門講義
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◯カント哲学の核心
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◯カントからヘーゲルへ
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◯岩波哲学思想辞典
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@業務連絡-t7c

イラストのサムネも素敵だけどやっぱりパーソナリティが映ってるサムネだとよりワクワクする

@seizomori

「例えのほうが解りづらい」 なにか既視感が..

@HN-rl5if

サザエ ヴォルフ学派に染まる
観たい〜😂

@NT-zf8dx

アプリオリ、分析判断は演繹法っぽくて、
アポステリオリ、総合判断は帰納法っぽいから、
科学の限界みたいな話に絡みそう

@koyomi_5690

ちなみに現代では言語哲学の観点から既に「アポステリオリな分析判断」というものが発見されていて、その最たる例が

「私は今ここにいる」

です。
※飯田隆『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上) 増補改訂版』勁草書房、2023、第3章補註1、pp.258-262

@Mania1192

「粘土的教育」取ってきた粘土を陶器にするためには①攪拌する②不純物を取り除く③沈殿した粘土を集めることから
色々な経験したしたものから不純物を取り除き、底通(底に沈殿に近い)した真理にたどり着こうとする教育

@thaimai_maimai

最近の回どれもそうですが、すごくわかりやすくて面白い。
「粘土的教育」社会のあらゆる階層まで行き届いた教育を、粒径が小さく地盤の最下層を占める粘土に例えた。

@ライアン-n7s

粘土的教育
粘土をこねて「ほら、お寿司できたよー」って見せた時に
A:「わあ、美味しそう」
B:「えー、竹輪じゃない?」
C:「いや、粘土でしょ。食べられないし」
D:「お寿司ってなに?」
など、同一の物体に対し多角的な視点の発露を促す、みたいな教育。かなぁ。

@GORILLA-in-BEAR

以前の動画と比べて、トキヒロさんとよしのぶさんの距離が近付いている気がする(物理的に)。
もしくは、カメラの画角が変わったんかなぁ

@sositou

やっほいやっほいゆる哲学ラジオじゃ〜〜〜やっほいやっほい

@waong2113

粘土的教育
なんかねばねば力強く
なんかふわっと調和して
叩きつけられてもへっちゃらさ
何にでもなれる柔らか教育

@Veux_Pas_Travailler

《粘土的教育》

粘土は水を含むことで柔らかく流動的になる。

粘土状の存在を《水流》に晒すことでその配列の仕方は変わる。存在も新たな形へと変動していく。

このとき、あまりに《水流》が乏しいと考えれば、手で捏ねようにも可塑性を欠くために"成形=整形"になってしまう。

《水流》が過剰であると考えれば、粘土状の存在は自らを保てずにバラバラに散ってしまう。

それぞれの粘土塊の初期条件によって、同じ《水流》でも結果として得られる形は異なる。

また、粘土は極めて可塑的で平滑であり、多様な形態をとり、また更なる変形の可能性まで残している。ある形式で"評価"することがそもそも困難である。"評価"しようと手で触れようにも、その間にもう既に変形してしまうので、ある形で留まることがない。

結局《粘土的教育》は次のようなものだ。

"焼成"や"成形=整形"のような、ある種の理想形や単一性、不可逆性を拒否しつつ、かといって"自主性"に任せた教育の敗北としての不良化、も拒否した、あくまでも"教育"の形態。

《水流》の形式というインプットに、教育主体による介入の余地を残しつつ、それぞれの粘土塊=教育客体の持つ特異性=結果のばらつきを無視することもしない、予測不能・介入可能な"教育"という見方。



全体主義と相対主義の"間"を攻めている。しかしそれは新しい方法論というよりも、そもそも"教育"そのものだ。

私たちはつねに・すでに《粘土的教育》の渦中にいて、留まることはない。


的な

@YasushiTakahashi007

堀元氏が「分類思考の世界」の書評やってたけど(ゆるコンピューター学徒ラジオかな)これってお二人でフォローしてほしいなあ。生物種の話なんだけど生態学と関係あるし、内容は種とは何かをめぐって生物学では普遍論争が起きていて種の存在論的形而上学が論争のまととかって読んでもさっぱりわからないんですよね。

@あるみクロ

粘土は、重さや形のバランス考えないとすぐ崩れてしまうから理性が大事なんだけど
(たとえ不恰好でも)自分の想いやイメージを形にしたい!と思ってこねつづける感性から形はうまれてくるので、

理性と感性を両方大事に育てるような教育。

@天下一-v4n

ドゥルーズ:粘土的教育
  それこそが「哲学」なんじゃないでしょうか。
  「どの話がどこに繋がっても良いし(粘土でいうなら、どの粘土ブロックをどのブロックの上に置いても良いし)、
  「どの学派とどの学派を混ぜても良いし(同上、赤の粘土と黄色い粘土を混ぜても良い)、
  「この考え方は合わない」とか言っても良いし(白の粘土と混ぜるの禁止)、

…等々、考えれば考えるほど、「粘土的教育は哲学」です。

@MR-lf8cd

もう、わかんなくなってきた…orz
あと3回聞いてノート取れば多分わかる。使いたい部分の脳が死んでる。今週はダメだ1発じゃわからん。アポステリオリが六根の話なのは理解出来た。専門用語同士の互換性はマジで欲しい。極論、客観なんてものは無いんじゃないかしらと思う。

来週は纏まって1時間ということなので楽しみです😊 が、あのカントの主著ともなると内容について行けるかが今からとてつもなく不安です…。

ねんど的教育
こねこねこねこね、理屈で理詰めでする教育のこと。理性教育。

@tamarind_kingdom

粘土的教育
人間の人格は100%外部からの刺激により形作られるものであるから、良い人格を定義し、それを実現する教育を設計しなければならないという考え方。人格を粘土のように自在にコントロールできるという思想を揶揄したもの。。

@ねえある

駅前の古本市でハイデガーの存在と時間入門が目に入ったので購入してみました。このチャンネルを視聴していなかったら絶対に興味を持たなかったし買うことはなかったと思います。

@YuYuYu-Yu

粘土的教育! 作って崩して、また作る!

learn, unlearn, relearn そのものやんけ!!!